日本古地図の謎

              

混一疆理歴代国都之図(1400年代李氏朝鮮で描かれたもの)と長崎の

地形が似てると思いませんか?

当時、日本全土は概要もはっきりとしていなかった上、李氏朝鮮

おいても日本列島の認識がこの地図の認識であったと考えると、魏の

時代も大陸ではこんな認識だったのでは?

そう考えると魏は九州を邪馬台国として考えていた可能性があると

思います。

邪馬台国7万戸に関しては、人口を養える平原が無いというのが障壁に

なると思いますが、それこそが盲点。

東京、京都、ロンドン、ニューヨーク等々、農村ですか?人口が集中

していても農村ではないでしょう。

交易によって栄えていたならば7万戸もあるかもしれません。

九州の一県だけに集中していたので無ければ邪馬台国連合(北九州から中部)

全体の人口なら可能性はアリかもしれません。

当時の家は今よりもずっと小さく、多くの土地を必要としないという

考えが頭からすっぽり抜け落ちている。

例えば敷地面積50坪に竪穴式住居(平均20㎡なら8戸)とすると7万戸

では175,000㎡を必要とする。175,000㎡と言えば三渓園と同じ広さです。

北九州一帯から中部に至る平原が三渓園と同じ広さあればいいので

これなら九州邪馬台国でもイケるのでは?と思います。

数字のマジックに気を付けて下さい。

 

こう言うとまた知ったかぶりの婆がしゃしゃって来ると思うので

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